ヒレカツがえらべない

野菜好きのわが家だが、つい先日、「今夜はなんとしてもトンカツが食べたいのだ!」という気持ちになり、テレワーク中だった夫をさそって出かけた。この日のお会計は夫の当番。

こざっぱりした行きつけのとんかつ屋さんでメニューを見る。ロースカツ定食、エビフライ定食、ミックスフライ定食、そしてヒレカツ定食。もはやロースの脂がきつい年代なので、お肉はヒレカツ一択。


ヒレカツ定食 1800円
特選ヒレカツ定食 2100円

・・・メニューを見ながらう〜んと考えていたら、迷っている私の心を見透かすように夫が言った。「特選にしなよ。そっちのほうが食べたいんでしょ。せっかくの外食なんだし。食べたいものを食べた方がいいじゃん」

こんな時、この人のことをうらやましいな、と思う(ちなみに夫は特段のグルメというわけでもなく、私が炊く玄米ごはんに梅干しを乗せて毎夜食べる素朴なタイプだ)。わたしはこんなふうに自分が欲しいものをさっと決断できない。優柔不断で、こういう小さな選択の時にあれこれと考えてしまう。頭のなかでは自動的にこんな思考が始まってしまっている。

・彼がお金を払ってくれるから一番高いのは悪いかな・・・
・特選なんて自分には勿体無いかな・・・
・ふつうのヒレでも十分なんじゃない? ・・・etc…

自動がゆえに意識せずに進行する思考のプロセス。自分に制限を課そうとするあれやこれや。でも、本当に食べたいのは特選ヒレカツ定食 2100円なのだ。だから迷う。心のなかでいろんな声がしゃべるので葛藤して選べない。優柔不断の根っこはここにある。合理的に考えれば、300円の値段の差は大人の私にとっては大したことではない。一番高いものをリクエストしたとて、夫が文句をいうわけでもない。

 けれども「本当にほしいもの」を無邪気に口に出すことを止めてしまう何かがある。それは小さいころに培われた生活習慣だったり、周りにあわせようと空気を読むクセだったり、「〜したら〜になってしまう」という恐れだったりする。この場合は「贅沢をしてはいけない」だったり、「自分は一番高いものにふさわしい人間ではない」だったり「いちばん高いものを頼んだら、夫に強欲だと思われてしまう」だったり、「慎ましい人間でいなくてはならない」といった信念や思い込みのようなものだろう。*

あー、うるさい。

でも、これらの信念や思い込みは、私たちがこの世界を生き抜いて社会生活を営む上ではとても役に立ってきたものだ。”こんなシチュエーションではこんな行動をすればOK” とオートマティックに答えを出そうとする賢明な学習システム。けれども人間は変わっていく。本当に欲しいものは、もはや以前とは違うのかもしれないし、心の一部はすでに本当に欲しいものを知っているのかもしれない。でも、無意識に走り出す思考の中でそのことに気づくのは案外難しい。そして本当に自分が望んでいるもの、本当はなりたい姿、本当はつくりたい世界を、気がつかないうちに先送りしてしまう。

夫のひとことで、「そっか、私は本当は特選ヒレカツ定食がたべたいとおもっているのか」と気がついた。でもそれを選べなくて迷っていた。たかがヒレカツ、されど、ヒレカツ。人は1日に何千回、何万回も小さな決断をしているという。何時に起きるか、何を食べるか、何を着るか、誰にどう反応するか、、、。無意識に行われるそんな決断のひとつひとつに耳をかたむけ「本当に自分がほしいもの」を見極める修行はまだまだ続く・・・。

*プロセスワークの専門用語では、このような心の中の声を「エッジの信念」と言ったりする。

 

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